« 2013年3月 | トップページ | 2013年6月 »

2013年5月

2013年5月17日 (金)

2013.05.17

5月17日の作品


<作品>

アクが強く毒気たっぷり。フランスの政治家タレーランは時代と人を見る目が鋭かった。策士にして警句の名手でもあったその人物が、「なにごとも学ばず、なにごとも忘れず」という言葉を遺(のこ)している▼19世紀の王政復古時代のこと、フランス革命で逃げていた王侯貴族が亡命先から戻り、激しく体制の揺り戻しに動いた。つまり彼らは、体験から何も学ばず、過去の栄華は何一つ忘れなかった、と。この言葉が200年たっても古びない▼返り咲いた自民党政権の、「人からコンクリート」への急旋回もしかりだろう。公共事業への思いは深く、大盤振る舞いで予算化された。国の借金は膨れあがり、今年度末にはついに1000兆円の大台という▼原発も、安全より経済に重きを置くような空気が政府与党を覆う。福島の苦難はなお続くのに、脱原発の声を軽んじる。多くの心配を置き去りに再稼働に前のめりだ。地震列島に原発大国を築いた政策を悔やむふうは、さらさらないらしい▼私たちにも「バブルよもう一度」の期待はないだろうか。株高にうかれてマネーゲームに走る話も、あれこれ聞こえてくる。あのとき、虚栄の陶酔と失墜を随分悔いたはずなのに▼タレーランの言葉は、作家の阿刀田高さんが17年前に本紙に寄せたエッセーで知った。日本に引きつけて、氏は「官僚は、政治家は、財界は大丈夫なのだろうか。われら自身は大丈夫だろうか」と憂えていた。大波小波となって歴史は繰り返す。言葉は色あせない


続きを読む "2013.05.17" »

2013年5月14日 (火)

2013.05.14

5月14日の作品


<作品>

交通事故に遭って顔中を包帯で巻いた「息子」を、母親は5カ月も看病した。それが、包帯を取ると赤の他人だった。「お前 息子じゃなかったの」という記事が40年前の本紙に載っている▼ニセ者は音信不通だった息子の免許証を持っていて、病室で「母ちゃん」と呼んで甘えたそうだ。母親は「やっと会えたという気持ちでいっぱいで、まさか他人とは思わなかった」と警察に話した、と記事は伝えている▼〈母親はもったいないがだましよい〉と江戸川柳にある。お金の無心、放蕩(ほうとう)の言い訳――。もっともこれは本当の息子の不心得で、ひとさまの母堂をペテンにかけるのとは違う。昨今の「振り込め詐欺」は、どこかしんみりさせられる40年前の奇談よりずっと悪質で、救いがない▼そんな犯罪を「母さん助けて詐欺」とは優しすぎる気もするが、関心を高める効果に期待したい。多様化するばかりの手口に「振り込め」では追いつかないと、警視庁が公募して選び、母の日に発表した▼被害額は全国で1日あたり4千万円を超える。詐欺集団は手を替え品を替え、何枚もある舌の先を研いで、もったいない親心を食い物にする。だます手合いにも、母親はあろうものを▼〈母という字を書いてごらんなさい やさしいように見えて むづかしい字です 恰好(かっこう)のとれない字です やせすぎたり 太りすぎたり ゆがんだり 泣きくづれたり……〉サトウハチロー。詐欺師たちよ、まっさらな紙に、母という字を書いてみるがいい


続きを読む "2013.05.14" »

2013年5月11日 (土)

2013.05.11

5月11日の作品


<作品>

東日本大震災の発生からきょうで2年2カ月になる。発生からしばらく、紙面はつらい記事で埋め尽くされた。だが、ともしびのような話に力づけられもした。4日後の小欄はこう書いている▼「紙の墓碑を思わせる東京の紙面にきのう、被災地で生まれた赤ちゃんの記事があった」。そして〈子どもはなおもひとつの喜び/あらゆる恐怖のただなかにさえ〉と谷川俊太郎さんの詩を引いた▼そんなことを、北海道の磯田憲一さんから頂いた本に思い出した。元道副知事で、今は大学の客員教授。生まれた子に職人手作りの木の椅子を贈る活動を続けてきた人だ。あの3月11日にも被災地で産声をあげた子らがいる。探して98脚を手渡した。うち29家族の体験と思いが一冊に詰まっている▼どれも、じわりと涙腺(るいせん)にくる。地震の直前に出産した母親は、激しい揺れの中、「このまま死ぬんだな。赤ちゃんごめんね」と思って分娩(ぶんべん)台で泣くことしかできなかったという▼思えばあの日は、途方もない喪失の日だった。誰もが息を呑(の)み、言葉を失った日。「生まれてくれてありがとう」。寄付を募って椅子を贈った磯田さんの思いも、ページの奥からにじみ出る▼森の木から作られた椅子は、幼児のお尻に合わせている。「この椅子が小さく小さく見えるほどあなたが大きくなっても、ずっと椅子とともに、幸せな人生を歩んでほしい」。これは別の母親の、わが子への願いだ。ちょうど足が床につくころか。子らはきょう2歳2カ月になる

続きを読む "2013.05.11" »

2013年5月 6日 (月)

2013.05.06

5月6日の作品


<作品>

懐かしいCMソングを思い出した。「24時間戦えますか ビジネスマーン」。1989年、バブルの絶頂期だった。徹夜仕事のお供に、眠気防止のためのドリンク剤が定番とされた時代だ▼あの浮かれた世相が頭をよぎったのは、「さとり世代」という言葉を知ったからである。ネットの世界で誕生し、広がっている。本紙教育面の「いま子どもたちは」でも、4日までの連載で取り上げた▼80年代半ば以降の生まれで、20代半ばまでの年代をいう。さとりとは悟りであろう。仏教でいえば、迷いを去り真理を会得することとされるが、ふつうには、知る、理解する、気づくといったところか▼右肩上がりの成長を知らずに育った世代である。だからか万事、欲がない。車もブランド品も欲しくない。海外旅行にも恋愛にも興味が薄い。将来、偉くなりたいとも思わない。同僚記者の表現を借りれば、「結果をさとり、高望みしない」▼長引く不況が彼らにそう強いただけなのか。時代が生んだ新しい生活哲学なのか。もっとも、作家の高橋源一郎さんはすでに10年前の本紙で指摘している。身近な欲望しか持たない「喪失の世代」が登場した。これは「世界最先端の現象」だ、と▼世代論は難しい。的を外すと「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」となりかねない。ただ、趨勢(すうせい)として若い世代の考え方は確かに変わりつつあるらしい。バブル時代の狂騒を思えば、真っ当な方向だ。景気回復もいいが、あんな時代に戻りたくはない


続きを読む "2013.05.06" »

2013年5月 5日 (日)

2013.05.05

5月5日の作品


<作品>

いったん懐を飛び出した金はもう俺のものではない。落とした財布を届けられた大工は、そういって受けとらない。届けた左官も引き下がらないから、大げんかになる。南町奉行、大岡越前守(えちぜんのかみ)の裁きは……。落語の「三方一両損」である▼江戸の職人は目先の金に頓着することを潔しとしない。そんな2人の意地の張り合いがおかしい。エッセイストの中野翠(みどり)さんはかつて古今亭志ん朝でこの噺(はなし)を聞き、泣きそうになったと言っている。人間には損得とは別に大切なものがある。「損得が分からないバカであってもいいんだ、と」(『この世は落語』)▼双方とも金がいらないわけではない。それでも粋(いき)がる。痩せ我慢する。自己満足であり、大げさにいえば美学である。その「自分でもバカだなあと思わなくもない」という微妙な心理を、中野さんは喜ぶ。なるほど、いとおしくも思えてくる▼人の心はややこしい。二心(ふたごころ)という言葉もある。一つの頭の中で天使の声と悪魔の声が交錯したりする。損するより得する方がいいと、誰もが簡単に割り切るわけではない。見えもあれば、利他心もある▼損得ずくでないものを、安倍首相も称揚する。著書『新しい国へ』は損得を超えよと読者に訴える。例えば国への思いがいま、軽視されている。憲法改正を後回しにした弊害だ、と。本当にそうなのか▼改憲機運が高まる。問うべきは、まさにその損得勘定である。ここは、「分からない」と言っている場合ではない。とっくり見極めよう


続きを読む "2013.05.05" »

« 2013年3月 | トップページ | 2013年6月 »

フォト